
鎌倉は、自宅からわりと行きやすいこともあって、季節を問わず、しばしば訪れる場所になっている。古い神社仏閣などの見どころが数多くあることは言うまでもないが、その周囲を山に囲まれ、紅葉で有名な獅子舞などは本当に山の中だ。すこし足を伸ばして海岸線まで歩けば、海の向こうに江ノ島や富士山が織りなす素敵な風景が広がっている。近年の戦火に遭わなかったためだろうか、都内ではあまり目にしない昔ながらの植物が、道端に普通に咲いていて驚かされる。自然や花、季節の移り変わりを撮り続けている自分にとっては、被写体に事欠かない魅力的な場所だ。
その鎌倉には、横須賀線の北鎌倉駅から入ることが多い。駅周辺は円覚寺の寺域で、秋には紅葉が美しい。どこから来るのか、駅近くの池には翡翠の姿を見かけることもある。駅を降りて、そのまま円覚寺に参詣することもあるが、大抵は、少し離れた東慶寺を真っ先に訪れる。現在は円覚寺の末寺となっている東慶寺であるが、鎌倉時代の開山から明治までは本山を持たない独立した尼寺で、江戸時代には縁切寺、駆込寺として知られていた。ある年齢以上の方(自分もその一人である)には、さだまさし(グレープ)の「縁切寺」のメロディとともに、北鎌倉にあるこの寺のことが思い出されるかも知れない。
そうした来歴はともかく、今の東慶寺は、いつ訪れても何かしらの花が咲く「花の寺」である。有名なのは、紫陽花の時期の少し前、6月はじめ頃に咲くイワタバコだろうか。寺域の一番奥にある墓所の入り口、切り立った崖一面に、タバコの葉に似たごわごわとした葉に、紫色の星形の可憐な花を咲かせる。よくよく気をつけて見れば、同じ北鎌倉にある明月院に向かう道すがらや、亀ケ谷の切り通し、浄智寺の境内などにもイワタバコは咲いているのだが、何しろ最初にこの花を覚えたのが東慶寺だったものだから、「イワタバコといえば東慶寺」と、自分の中では勝手に結びついてしまった。
このイワタバコの咲く崖には、ボクの大好きな小さな石仏が置かれている。古いものなのだろう、ところどころ崩れてしまって、目鼻立など、すでにはっきりしなくなっている。仏さまの前には小さな一輪挿しが置かれ、いつも何かしらの季節の花が飾られている。今年の五月末に訪ねた折には、数ある花を差し置いて、はなやかとは言い難いドクダミの花が生けられていた。うしろの崖には咲き始めたばかりのイワタバコがちらほら。手を合わせたのちに、仏さまのお顔にフォーカスを置いてシャッターを切るのが、自分の中ではひとつの「お約束」になっているのだが、今回ばかりは手前のドクダミにピントを合わせてシャッターを切った。この地味な仏さまに、ドクダミを供えるセンスがとても好ましく感じられたからだ。
その鎌倉には、横須賀線の北鎌倉駅から入ることが多い。駅周辺は円覚寺の寺域で、秋には紅葉が美しい。どこから来るのか、駅近くの池には翡翠の姿を見かけることもある。駅を降りて、そのまま円覚寺に参詣することもあるが、大抵は、少し離れた東慶寺を真っ先に訪れる。現在は円覚寺の末寺となっている東慶寺であるが、鎌倉時代の開山から明治までは本山を持たない独立した尼寺で、江戸時代には縁切寺、駆込寺として知られていた。ある年齢以上の方(自分もその一人である)には、さだまさし(グレープ)の「縁切寺」のメロディとともに、北鎌倉にあるこの寺のことが思い出されるかも知れない。
そうした来歴はともかく、今の東慶寺は、いつ訪れても何かしらの花が咲く「花の寺」である。有名なのは、紫陽花の時期の少し前、6月はじめ頃に咲くイワタバコだろうか。寺域の一番奥にある墓所の入り口、切り立った崖一面に、タバコの葉に似たごわごわとした葉に、紫色の星形の可憐な花を咲かせる。よくよく気をつけて見れば、同じ北鎌倉にある明月院に向かう道すがらや、亀ケ谷の切り通し、浄智寺の境内などにもイワタバコは咲いているのだが、何しろ最初にこの花を覚えたのが東慶寺だったものだから、「イワタバコといえば東慶寺」と、自分の中では勝手に結びついてしまった。
このイワタバコの咲く崖には、ボクの大好きな小さな石仏が置かれている。古いものなのだろう、ところどころ崩れてしまって、目鼻立など、すでにはっきりしなくなっている。仏さまの前には小さな一輪挿しが置かれ、いつも何かしらの季節の花が飾られている。今年の五月末に訪ねた折には、数ある花を差し置いて、はなやかとは言い難いドクダミの花が生けられていた。うしろの崖には咲き始めたばかりのイワタバコがちらほら。手を合わせたのちに、仏さまのお顔にフォーカスを置いてシャッターを切るのが、自分の中ではひとつの「お約束」になっているのだが、今回ばかりは手前のドクダミにピントを合わせてシャッターを切った。この地味な仏さまに、ドクダミを供えるセンスがとても好ましく感じられたからだ。