「落椿」を撮り始めてどのくらいになるだろうか。デジタル一眼を購入して写真を撮り始めたごく初期の頃にはすでに撮っていた記憶があるから、おそらくここ20年ほどの間、飽かず繰り返し撮っている被写体だろう。以前の住まいの近所には小さな観音さまがあって、その周辺の林には浦島草などのめずらしい山野草が咲いていた。ごく狭い範囲とは言え、人口数十万の都市の周辺とは思えないほど自然が豊かだったが、その林の中に幾つか大きな藪椿の木があった。やや小高い場所にある観音さまから崖下に降りて小学校に抜ける道は、春になると、落ちた椿の花でほんのり色づいていた。
 写真を撮り始めたばかりの頃は、花を中心に、目につくものは何でも撮っていたから、仕事場への行き帰りにこの崖下の道も良く歩いていた。少し遠回りをして、毎日のようにこの道を歩きシャッターを切っていたが、地に落ちてもなお華やかに咲く椿が、時間の経過とともに萎れ、変色し、次第に朽ちて、最後は地面にその痕跡をかすかに残すのみとなるその様子をつぶさに眺め、これは花の「九相図」だと思った。「九相図」とは、美女が亡くなったあと、その亡骸が骨となり墓に収められるまでを描いた仏教画のことである。
 若き修行僧の煩悩を払うために描かれたという。うら若き美女が醜く朽ち果てていくその様子には、決して美しくはないが、人の目を惹きつけてやまない何かがある。普段は意識しないようにしている、調和のとれた美しい世界のほころびからのぞく「見にくい」何か。これまでは「絵になりそうな」花を探し、余計なものが写り込まないようシャッターを切って、そうして撮った写真をネットにあげ、「きれいだね」「上手だね」と褒めてもらって喜んでいた。今なら「インスタ映え」をねらってSNSに投稿し、「いいね」の数に一喜一憂するようなものか。そんな無邪気な世界が色褪せて見えた。
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